国見神社が鎮座する掖上の地は、日本書紀、巻第三
(神武天皇の巻)に登場する。東征を終え、橿原の地で即位した後、
神武天皇は国見山(日本書紀には「腋上の嗛間の丘
(わきがみのほほまのおか)」と表現されている)にお登りになり、
自分の「国を見」られた。
その時に「なんとよい国を得たものか
。狭い国かもしれないが、蜻蛉(とんぼ)がとなめ(交尾)
をしているように連なった山々に囲まれた地だ」
と発せられたとされる。蜻蛉とは豊作の象徴であり、
自分たちが得た地は狭いかもしれないが、稲作が盛んな、
恵まれた地であるとの意で神武天皇は発せられたのである。
この国見山での出来事が、日本書紀における神武天皇の
最後の業績記載となっている。
国見神社では瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を主祭神として
お祀りしている。この神は天照大神の命により天孫降臨
をした神であり、神武天皇の曾祖父でもある。
やがて、都が移り変わり奈良、京都へと北上していく中で、
いつしか忘れられた、時代に取り残された神社となった。
しかし、神武天皇の御世より掖上に住む氏子たちによって、
神武天皇の想いは守られ、ご奉仕、信仰されている。
かつて社殿は国見山の山頂にあり、秋津村冨田地区の
人も氏子であったが、いつの時代か丘の東麓に移され、
今では原谷・今住・上方の三地区の人々の氏神として祀られている。
江戸時代には近隣の高取藩や櫛羅藩からの寄進により
社殿を改築したとの記録がある他、鰐口には明和5年(1768)
9月の刻銘(盗難にあい不明、現在は大鈴を代用)、
棟礼に「改築年 天保七年(1836)」の記載がある。
また、当社では瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の他、
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と田心比売命
(タゴリヒメノミコト)の二柱もお祀りしている。
住古より、国の発展はもちろんのこと、疝気(せんき
腰痛や腹痛)の神としても仰がれ、粟を供え奉って病気平癒を
祈願するなど、その御神徳あらたかなるため、
遠近より参拝祈願する者多しと伝えられている。
国見神社 御由緒より
日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の
「ホホ間の丘」に登って国見をされ「妍哉、国を獲つること
(なんと素晴らしい国を得たことか)。
内木綿の真乍き国といえども(狭い国ではあるが)、
なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)
せる如くあるかな(トンボが交尾して連なっているように
山々に囲まれたところだ)」と宣い、
これによって日本の国号「秋津洲」の名が誕生したと
されていて、国見山はこの丘の実在の地と言われています。
ホホ間の丘と言われる山はもう一つ「本馬山」があり、
ホホ間と本馬が似ていることから有力な候補地ですが、
残念ながら本馬山は現在登ることができません。
この二つの山はいずれも「掖上」という地域にあり、
山から見下ろせる地域は「秋津」と言います。
国見山頂(229メートル)には「ホホ間の丘」の
石碑が建っています。
御所市観光課HPより引用